羽子板とは

羽子板の歴史は古く神社などで魔除けや占いの神事に使われていたと思われます。この羽子板がお正月の遊戯や贈り物に用いられたのは室町時代です。
羽子板は、古くは「胡鬼板」(こぎいた)や「羽子木板」(はねこいた)とも呼ばれ、羽子(羽根)は、「胡鬼の子」「はごの子」「つくばね」とも呼ばれていました。
室町時代の永享4年(1432)正月5日に、宮中で宮様や公卿・女官などが集まって、男組と女組に分かれ「こぎの子勝負」が行われたと「看聞御記」という書物に記録されています。

戦国時代から羽根つきに厄払いの想いがあり、江戸時代は年末に邪気よけとして羽子板を贈ったとのことです。 今も女児の初正月に羽子板を贈ることが習慣が残っています。

江戸時代になり羽子板の図柄は日の出・七福神・松竹梅など目出度い絵に加えて、町人文化・元禄文化を反映して「歌舞伎」の役者絵が登場します。錦絵の影響を受けた貼り絵の羽子板が作られ、江戸時代の終わり頃に、押し絵を応用した役者似顔絵が作り出され、高い人気がありました。

明治時代に入り、歌舞伎黄金時代が到来し、九代目団十郎・初代左団次・五代目菊五郎などの名優が登場押し絵や押絵羽子板が江戸工芸・東京の職人芸として完成していきました。

災厄を被い、幸福を祈る気持ちが込められた羽子板が、お正月の遊びや新年を迎える贈り物としてふさわしかったのでしょう。お正月に羽子板を飾ったり、女の子の初正月に羽子板を贈る習わしは、古くから伝わる魔除け、厄被いの意味によるものです。新年の幸福を祈ったり、誕生したばかりの赤ちゃんが、丈夫に、すくすくと育つようにとの願いを込めて飾ります。

 

羽子板が「女の子のお守り」と言う意味は?

羽子板で突く羽根に付いている黒くて堅い玉は、無患子(むくろじ)という大木の種です。読んでのごとく「子が患わ無い」という意味で、羽子板が無病息災のお守りになった由来です。

また、羽根が病気を運ぶ蚊を食べてしまうトンボに似ていることから、子が蚊に刺されないように、つまり無病息災の意味につながったとも言われています。

 

左義長羽子板

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当時の羽子板には、板に直接絵を描いた「描絵羽子板」(かきえはごいた)や、紙や布を張った「貼絵羽子板」(はりえはごいた)とともに、胡粉で彩色し、金箔、銀箔等を押したり蒔絵をほどこした豪華で華美な「」(さぎちょうはごいた)もありました。

「左義長」とは室町時代の記録に、正月の15日に清涼殿の庭に青竹を組み、書初め・短冊・扇子等を結び、陰陽師がこれに火を付け囃子踊ったと記録があり、この儀式を「左義長」と言います。

これが民間に伝わり、書初めや注連飾りを一緒に焼き「どんどん焼き」として厄払いの信仰となり今日まで伝わっています。

「左義長羽子板」は羽子板の表に見物をしている人物を配し、裏に「左義長」の儀式を描き表と裏の図を合わせて情景を表しています。

作りは両面とも等しく絢爛な意匠をこらし、上下の雲形は胡粉で亀甲型などに盛り、金箔をおき、極彩色を用いた華麗な羽子板で貴族間の贈り物や婚礼の祝いに用いられました。

民間でも京羽子板、内裏羽子板と呼び真似て用いたが、江戸幕府が行き過ぎた華美を戒めていた例が見受けられます

江戸押絵羽子板

綿を布でくるんで、さまざまに立体的な絵柄を仕上げげる「押絵」が羽子板に取り入れられたのは江戸時代の初めごろです。

江戸時代後期の文化文政期(1804~1829)になると歌舞伎役者の舞台姿を写した羽子板が登場、江戸の人々の人気を博しました。江戸庶民文化が創り出した工芸品である押絵羽子板は、歌舞伎の発展とともに発達し、その伝統的な技法は今日も受け継がれ、現在の押絵羽子板師たちが伝統工芸品「押絵羽子板」製品を作りだしています。